今日は磔さんが見つけた「沖田神社」についてのご紹介です
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取引先の間を移動するときによく通る百間川沿いに「沖田神社」というものがあります。
よく人が集まったりと賑わっているので、それなりに由緒があるのではと思って立ち寄ってみました。
撮影の後、家でゆっくりと神社について調べてみたので、あまり歴史に興味のない人でもさらっと読めるように、簡単にまとめてみました。…というつもりが、実に1,500文字近くなりましたので、お時間あるときにゆっくり読んでみてください。
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1692年の江戸中期。備前藩池田氏は、石高(お米の収穫量)を上げるために海岸沿いに埋立地を作るのですが、藩から命令を受けた津田永忠という人(境内に銅像もある)は1694年には完成させるという驚きの速さでこの工事を完了します。
そして、この開拓地の平安豊穣を願ってその年の4月に建てられたのが、この「沖田神社」のようです。
当初、岡山市南区福島に鎮座していたこの神社は、岡山市中区沖元へ遷宮したのち、埋立地であったため水害を受けて現在の場所(住所的には同じ岡山市中区沖元)へ遷ったようです。
調べると、埋め立て工事が難航した際に、「きた」という若い女性の人柱をたて龍神にささげたという伝承があり、真偽のほどは不明ですが、この神社の本殿下に五輪塔と祠があるのが、その供養ではないかと言われているそうです。
また、本殿以外に非常に多くの社があり以下のような神様が祭られています。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、軻遇槌命(かぐつちのみこと)、倉稲魂命(うがのみこと)、句句廼智命(くくぬちのみこと)、おきた姫
古事記による物語的には、日本を生み出した伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の子供が姉である天照大御神と、弟の素戔嗚尊と句句廼智命、そして軻遇槌命を生んだときに伊邪那美は亡くなってしまいます。このことから埋め立てられて新しくできた土地を象徴する意味でこれらの神々が祀られたのかなという印象を受けます。
倉稲魂命は素戔嗚尊の娘で、穀物の神様であり、現在はお稲荷様として広く信仰されていることから、埋立地の五穀豊穣を願った意図だと思われます。
おきた姫は、先の人柱の伝承が神格化されたものでしょう。
さて、境内には道通宮(どうつうぐう)なる末社があり、伝承によると戦国時代の羽柴(豊臣)秀吉による備中高松城水攻めの際に、毛利方の城主・清水宗治の弟・長九朗が道通宮の使いの白蛇に導かれて城から脱出に成功し、大島御滝山(現在の岡山県笠岡市大島)に逃れたことからその地で祀られたとか。
そして子孫が埋立地に移り住んだ1800年(江戸時代末期)に、沖田神社境内に遷されたのが道通宮のようです。
この道通宮の手前に男女子供用に分けられた石があり、それを持って感じた重さで願いが叶うか判断できる「願い石」というようです。重く感じればまだ願いが叶わないということで、道通宮の廻りに巡回路のようなものがあり、自分の年齢と同じか、その半分の回数、時計回りに周回すれば願いが叶うというちょっとしたアトラクションがあります。
他、宗像宮もあり、宗像三女神は、天照大御神と素戔嗚尊の姉弟喧嘩の賭けから生まれた三姉妹で交通安全の神様でもあります。
というように埋立地に移り住んだ人々が、ここに来れば大抵の祈願ごとができるようにあれこれてんこ盛りにされたかのような、そんな印象も受ける神社でした。
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大抵の願い事がこの神社1つで叶うというのは、まるでオールインワン神社ですねと笑い話をしていました
願い石がちょっと気になります
時間がある時にゆっくり回ってみたいものです
沖田神社
〒702-8001 岡山県岡山市中区中区沖元411
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