磔さんの史跡探訪三部作の最後は、山中鹿介のお墓についてです
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山中鹿介の墓

最後に、展望所で手に入れた観光マップにあった「山中鹿介の墓」を訪れました。

山中鹿介は尼子の家臣だった人で、尼子といえば出雲(島根県)を中心に山陰に勢力を伸ばした大名ですが、その大名の家臣の墓がなぜ岡山の高梁市に…と思うかもしれません。

尼子氏は毛利氏に滅ぼされますが、毛利氏と対決姿勢を強めていた織田氏によって援助を受け、末裔が播磨(兵庫県)で再興の兵を起こします。

しかし、再度毛利氏によって滅ぼされ、家臣の山中鹿介は備中松山城に連行される途中、阿井の渡と呼ばれるここで暗殺されました。

山中鹿介は非常に武勇に優れた武将で、尼子氏再興のために何度も諦めず立ち上がった人だったので、生かしておくことに危険を感じての処遇だったかもしれません。

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ。」

逆境に耐えて何度も尼子氏の再興に挑戦した山中鹿介が月を眺めて言ったとされる言葉です。

「尼子氏を再興するためなら、どんな苦労でもしてみせる。どんな難事でもかかってこい。」そんな意図で言った言葉でしょうか。

一時期は山陰・山陽八ヶ国(現在の島根県と岡山県の大半)を治めていた尼子氏も山中鹿介が13歳で初陣した頃には出雲一国にまで減って、明日には滅びるかもしれない状況。

それでも、決して裏切らずに初陣から20年間最後まで尼子氏のために戦い続けた山中鹿介は、今でも多くの人が感銘を受けています。

享年33歳(生年に諸説あり)

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なかなかじ〜んとくるお話しですね

これを読んだら鹿介ファンが増えそうです

いつもとても分かり易くまとめて頂き、ありがとうございます

磔さんのお陰で歴史に興味を持つ人が増えるかも知れませんね

山中鹿介の墓〒716-0062 岡山県高梁市落合町阿部

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